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昔の84

冷たい翼




こんな田舎だから当然学校も少なく、遠くから通学せざるを得ない生徒もたくさんいる。
だが、その中でも私は特別不幸な部類の生徒だろうと思う。
なにせ私の家は森の奥にぽつんとある、山姥でも住み着いていそうなものなのだ。
一番近い集落からでも歩いて20分位かかる。
自転車なんて森の中では使えないから、歩いて行くしか無い。
毎日ひとりで山道を歩くのはとても怖いのだ。
特に冬の下校中なんてもう殆ど真っ暗な森の中を抜けて行かなければならないので、毎日必死で走って帰る。
夕日の沈みかかった暗い森は、もうまるで普段の私の住んでいる世界とは違う。
足を止めてしまえばもう一生元の世界に戻れないのではないか、そんな妄想もその闇の中では恐ろしいほどの現実感を持って私に迫ってくる。
大きな楠の横を通り、あばら屋近くの小川を飛び越え、連理の枝をくぐれば、ようやく家の光が見えてくる。
そこでやっと私は安心して、歩きながら呼吸を整えるのだった。

そういうわけで私は引越ししたいと何度か母親に掛けあってみた。
しかしその要求が受理されることはなかった。
この家は先祖代々伝わる家で、そう簡単に手放すわけにはいかないのだという。
確かに家は古い。昔ながらの木造住宅だ。
未だに薪でお風呂を焚いている家なんて、うち以外に何軒あるのだろう。
いや、そういう話じゃない。
だいたい、先祖代々伝わっているからなんだというのだろう。
古ければいいというものではない。
というか、大抵の場合において、古いより新しいもののほうが良い。
非効率的なものは淘汰されるべきだ。
お風呂だって薪で焚くよりガスか電気で沸かしたほうが時間も労力もかからない。
家も集落の近くにあったほうが絶対便利だし安全だ。
虫もあんまり出てこなくなるんじゃないだろうか。
いいことばかりだ。でも、人の心はそんなに単純なものではないのだ。


私が居なければ、永遠に続いていたであろう日常。
それがいとも簡単に破壊されてしまう。
そんな光景も、もう見慣れてしまった。
もう他人の不幸を悲しんだりはしない。
私は楽になった。
同時に、他人の幸福を喜ぶこともできなくなった。
私は孤独になった。


友達は多い方ではなかったが、とても仲の良い親友が3人いた。
1人目は、みんなから『はよちん』と呼ばれているショートヘアの子だ。
彼女は『挨拶部』という部活をひとりで立ち上げ、誰彼かまわず挨拶しまくっている変人だ。
私も声をかけられ、私は自分にだけ話しかけてくれたのかと勘違いしてテンションが上がってしまい、勢い込んでまくし立てているうちに友だちになった。
ちなみにあだ名の由来は、はよちんが毎朝『おはよう』と挨拶していたのが、日が経つにつれ『おはよー』→『はよー』→『はよ』と洗練されていき、最終的に『はよ』『はよ』と、なんだか急かすような挨拶になっていたという話である。もちろん実話だ。
彼女は変人でうるさいが、明るく素直なので割りとみんなから好かれている。
私たち仲いい4人グループの中では特異な存在だ。
つまり、彼女以外の私も含めた3人は、割りと好かれていない。

後の2人はまあ、どうでもいいだろう。
きっと貴方の想像通りの子だ。どのみち今回の話には関係がない。
地平線と飛行機雲のように、何処まで行っても交わらない。
でも飛行機が墜落でもすれば話は別かもしれない。
彼女たちは堕落してしまったのだ。
周りの情が彼女たちの翼を溶かしてしまったのだ。

はよちんはいつでも明るい。
しかし彼女の本質は実に冷淡で、頑強である。
だから誰の干渉も受けず、常に自分を保っていられるのだ。
だから彼女の翼は溶かされないのだ。
天高く悠々と伸びやかに飛翔する彼女を、私たちは狭苦しく息苦しい地上から眺めるしか無かった。
太陽と交わった彼女はあまりにも眩しく、このまま風と共にどこまでも高く昇っていけそうに見えた。
高く高くいよいよ翼はギラギラと透き通り刃物のように鋭く尖る。
彼女の腕も、足も、顔も、酸素のベールを纏いながらゆっくりと凍り付く。
それは彼女が更なる高みへ昇るための準備なのだ。
でもこれ以上高くへ昇ってしまったら。
もうここから見えなくなってしまう。


輪郭をなぞるように手を滑らせる。
その手は首筋で止まり、肌を離れて堅くなる。
どうしてこの世界はいつもこんなに醜いのだろう。
ここには美しいものがない。
だから何も創り出せない。
ただただ壊れていくだけだ。
壊すことで作られるものもあると彼は言った。
醜いものを削っていくことで美しいものを創り上げることができると。
奴は全く天才的な詐欺師なのだ。
ここから醜いものを取り去れば、後にはもう何も残らないじゃないか。


だからいつかこうなると言ったんだ。
冷えきった空気が肌を刺す。
はあ、と溜息を付けば息は白く凍る。
あれだけ光に満ちていた空は濁った雲に覆われ、陰気な雰囲気を醸している。
もう誰も、わざわざ見上げようとは思わないだろう。
指先が痺れる。
堕落したのだ。
寒い。
痛い。
私のせいなんだ。


森はいつにも増して暗く、不気味にざわついている。
冬だというのに木々は覆い茂り、空は二重に隠されている。
地上まで届く光はごく僅かだ。
からからと落ち葉の転がる音がする。
微かに木々の掠れるような音も聞こえる。
それ以外は何も聞こえない。
だが、不思議といつもの恐怖は感じなかった。
あんなことがあった後だからだろうか、森は何処か懐かしささえ漂わせていた。
大きな楠の木の前に立つ。
いつもは走って横を通り過ぎるだけだが、今日はなんだか幹に触れてみたくなった。
独特の匂いが鼻を突く。
幹はごつごつとして、心なしか僅かに温かいような気がした。
楠の木は毎日見ていたはずだったのに、まるで今日初めて知ったような、変な感じがした。
相変わらず森は静かで、でも何処か優しい雰囲気があった。

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