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昔の89

心の中に何があるのか考えていた頃




ずっとむかしからそばにいた。
それは夏の涼風のように、冬の陽光のように、
目には見えず、捕まえることもできず、気付かないうちにそこにいた。
もうそれは私の一部だった。
いや、あるいは私が、それの一部だったのか――――


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そして私だけになった


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生まれてきたことに後悔はないはずだった。
少なくともそう思いたかった。
しかし朝はいつも否定のしようもなく憂鬱で、
夢から醒めてしまったことは残念だと思わずにはいられなかった。

着替えて台所に降りる。
お母さんは今日も早起きで、元気そうだった。
「おはよう。」
『あら、おはよう。今日も早いわね。』
「お弁当作るの手伝うよ。何すればいい?」
『ありがとう。じゃあ、卵焼きを作ってもらおうかしら。』

手伝うといっても、これは私のお弁当だ。
だから本当は私がひとりで作らなくちゃいけないんだろうけど、お母さんがそうさせてくれない。
せめて半々で、ということで今は落ち着いている。

「お母さん、いつもお弁当作ってくれてありがとうね。」
『何言ってるの、当たり前でしょ。』
「でも、大変でしょ?わざわざ私一人のために材料買ったり、料理なんかしたりするのは……」
『まあ、そりゃ大変といえば大変だけどね。でももう慣れたわよ。』

大変じゃないと言ってくれなかったので、私は安心した。
大変じゃないはずがないのだ。また、そうでなければいけない。

『来週から2つ作らないといけないしね。これくらいでへこたれるわけにはいかないわよ。』
「あ、そうだね。私も手伝うよ。」
『ううん、いいわよ。お父さんの分はお母さんが作るから。』
「いや、作る量を二倍にするだけなんだしさ、一緒に作ったほうが効率いいって。」
『うーん、それもそうねえ。じゃあお願いするわ。』
「任せといてよ。」

そうだ、今週末にお父さんが帰ってくるんだ。
それを思い出して、私は少し元気になった。
今週さえ乗り切れば、半年ぶりにお父さんに会える。
そうしたらまた、色んなことを話しあおう。
お父さんは私が気兼ねなく話せる唯一の相手だった。

「いってきまーす」
『いってらっしゃーい。』
私は、色んなものに迷惑をかけている。
お母さんにも、大きな負担をかけている。
正直なところ私はきっと生まれてこない方が良かったのだと思う。
でも、それを口に出す訳にはいかない。
それを聞いて悲しむ人が一人でもいるなら。


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「おはよう。」
『あっ、おはよー。今日も元気無さそうだね。』
「分かる?これでも元気そうにしてるつもりなんだけど。」
『そりゃわかるよー、何年付き合ってると思ってんのー。』

幼馴染の佐美ちゃんだ。
お母さん同士の仲が良く、生まれた頃からの付き合いらしい。
だから、私の思い出の中にはいつも彼女がいる。
私にとっては一番自然体でいられる相手だ。

『今日もいい天気だねー。力が湧いてくるよ。』
「その感覚は私にはわかんないね。」
『うーんとね、ほら、ソーラーパネルになったみたいな感じ。』
「ソーラーパネルの気持ちがわかるの?」
『わかんない。』
「そーらーそうでしょ。」
『は?なんか言った?』
「そーらーはあおいーなーおおきーいーなーって言ったんだよ。」
『ぷっ、なにそれー!フォローになってないよー。』

私達はよく似ている。こうして話しているとどっちがどっちだか分からなくなるほどに。
長い時間一緒にいることで、お互いに相手の方に近づいてしまったのだ。
いや、最初からずっと一緒だったのだから、相手に似せて自分を作ったと言ったほうが正しいか。
決して人物の書き分けが出来てないわけではない。

『でも、歌ってもらうのも久しぶりだね―。それもお父さんに教えてもらったの?』
「そうだよ。ずっと昔に、子どもが歌っていた歌なんだって。」
『ふーん……あっ、そうだ!歌だよ、歌!』
「え、何が?」
『歌を聞いてると、なんか元気が出てくるんだよ!この感じだよ、力が湧いてくるって!』
「あー、確かに歌ってるとちょっと気分が楽かもしれない。」
『あーあ、私も歌えたらなあ。いっしょに歌えるのに。きっと楽しいよ。』
「そうだね、きっと。」

その日は永遠に来ないけれど。


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下駄箱を開け、溢れ出してきたのは大量の虫の死骸。
それは私の上履きの中にもぎっしりと詰められ、耐えがたい異臭を放っていた。


『あいつらまたこんな……!今日こそぶっ飛ばしてやる!』
「いや、いいんだよ佐美ちゃん。別に嫌じゃないから。」

無理矢理に笑顔を作る。

『そんな無理しなくていいよ。私はただあいつらが気に入らないだけなんだからさ。』

やっぱりすぐに見破られてしまった。
でも、その言葉は嘘じゃなかった。

「これぐらいがちょうどいいんだよ……私が悪いのは事実なんだから。」
「こういう境遇に身を置いてれば、罪の意識を忘れないで済む。幸せすぎると怖いんだ、私は。」
「変に気を使われて孤立するほうが嫌だしね。悪意がある分残酷じゃないと、そう思ってるよ。」
『無理に納得してるようにみえるんだけど……まあそう言うなら』

箒で適当に掃いておく。佐美ちゃんも手伝ってくれた。

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