スキップしてメイン コンテンツに移動

昔の53

幸福病




数日前から、夫の様子がおかしい。
最初に異変を感じたのは、4日前、夫の大切にしていた時計を
うっかり踏んづけて壊してしまった時だ。
普段だったら鬼神のごとく怒り狂うであろう彼が、この時は
なんと笑って許してくれたのだ。
その時は、年をとって性格が丸くなったのかと思い、むしろ喜んだのだが、
徐々にそんな程度のことではない分かってきた。
彼は何を言ってもニヘニヘと笑って、生返事のような答えしか
返さなくなってしまったのだ。
昨日は仕事にも行かず、家で何もせず一日中笑っていた。
そして、今日。遂に話しかけても全く反応をしなくなった。
これはひょっとして呆けてしまったのかと思い、
病院へ連れていくことにしたのだった。



「これは、幸福病ですね。」
「『幸福病』?」
「はい。体中に幸福感が充満して、もう何もしたくなくなるという病です。」
「それは、治るんでしょうか?」
「絶対とは言えませんが、治療法はあります。」
「どんな方法ですか?」
「とにかく絶望感を与えるのです。ありとあらゆる手段を使って。
 とても表には言えないようなこともやる必要があります。」
「え……もっと穏便な方法は
「無いのです。これが唯一の治療法なんです。」
「……でも……絶望して、何もやる気が無くなると言うなら分かりますが、
 幸福なのに何もしたくないというのは、どうしてなんでしょう…?」
「これは一般的な説ではなく、あくまで私個人の考えですが、
 人は皆、幸福を得ると言う目標があるから健全に生きていけるのだと思います。
 絶対的な幸福を得てしまった者は、もはや生きる必要が無い。
 死んだも同じ状態になってしまうのです。」
「ああ……」
「どうされます?治療を行いますか?
 治療費は一切頂きません。国からの援助が出ることになっています。」
「それが、あの人の本当の幸せになるのだったら……お願いします。」
「……本当の幸せとは、何でしょうか?」
「えっ?」
「あの方が今感覚している幸福は、紛れもなく本物です。あの方にとっては。
 私たちから見れば確かに彼は病気に見えますが、
 彼自身にとっては、世界は今これ以上無いくらい平和で穏やかなのです。」
「本人が幸せならそれでいいって言うんですか?
 じゃあ例えば、あなたの奥さんがドラッグに手を出したとして、
 それでも本人が幸せならいいって言うんですか?」
「ドラッグには副作用があります。
 幸福な期間は永遠には続かず、必ず後で苦痛を味わうことになるのです。
 だから私は、ドラッグの使用には反対します。
 しかし、幸福病にはそういった症候が見られないのです。
 この病の症候はただ一つ、『最大限の幸福を感じる』ということだけなのです。」
「だからこの病気は治さなくてもいいと?」
「いえ、そこまでは言ってません。
 あなたが『本人が幸せになるのなら、お願いします』とおっしゃったので、
 わたしは判断に必要な情報を提示したまでです。
 あくまで、決定権はあなたにあります。」
「……」
「どうされます?」

コメント